今更ながら、友人とアイ・フィール・プリティをみてきた。
これはアメリカ版一種の“かわいいは作れる!”なんだなと思った。
頭を打つ前のレネーの気持ちが痛いほどわかる。
フィールサイクルに通ってた自分と重ね合わせて、太ってる自分へのコンプレックスだとか周りの目だとかすべて気になる気持ちがよくわかった。
フィールサイクルに通っていると、周りの服装が気になる。細くなって自信が出てきた人たちはどんどんスポブラにレギンスのような露出が多い格好へ変わっていく。私はタンクトップが限界だった。
この映画を観に行く当日にも私は母に旅行に行くお金があるならその30万でライザップに行ってきなさい。デブはみっともない。醜い、あんたなんか誰も愛さないという罵倒を受けた。
客観的にみたら私はデブでブスだ。
でもメイクも好きだし、服を買うのも好きだ。
自分に似合うものを取捨選択出来ているのではないかとおもっている。
レネーが友達に言われる「美人になることが夢なんて悲しすぎるわ」って、すごく突き刺さった。美人だから愛されるわけでも、美人だからすべて上手く行くわけでもない。
美人だって振られることも、傷つくことも、コンプレックスもあったりする。
私にもレネーと同じぐらい最高の友人がいる。友人はたしかに容姿で選ぶわけじゃないのに、どうしても恋人となると容姿の呪いがかかる。
優しくて面白いあなたが好きって友人からの褒め言葉は何よりも嬉しい言葉のはずだ。
美人にはなれなくても、かわいいは作れる。この“かわいいは作れる”は私の中の座右の銘だ。
イーサンが凄くいい。
レネーのことを凄く愛していて、最高だって言ってくれる。
容姿から始まった恋愛じゃなくても本気で今は容姿も美人さんだと思ってくれてるのを感じる。
友人の彼氏が「俺、お前のこと見た目が好きなわけじゃない」といって大喧嘩になったのを思い出した。見た目だけで選んだわけじゃないっていう意味だったんだろうけど、付き合っていく上で見た目だって好きになってもらわなきゃ一緒にいれない。
逆に私の弟のように俺は見た目が100パーセントと割り切れるやつもいる。見た目が100パーセント好きにならないと中身なんて知ろうとは思わないと。一理ある気もする。でもこんなやつは私のイーサンにはならない。
私の今の彼氏さんはどうだろう。少しモラハラの気配??二重幅をアイシャドウで塗らない方が好きって言われてよくよく話を聞くと、そんな不自然なことしなくても好きだよって。薄いメイクのそのままの君の顔が笑顔が好きなんだっていう話だった。
まあでもメイクは好きなようにやらせてほしい(笑)
私もレネーほどまだ自信を持ててない。向こうもイーサンほど器用に表現してくれない。ある意味今のところ釣り合ってるのかもしれない。
美人になれなくてもかわいいは作れる。かわいいって人によって様々だから。
人によっては、車だって、電車だって、石だって、虫だって、料理だって、おじいちゃんだってかわいい。
自信を持って私は私らしく可愛く生きていく。
自分に自信がない女の子も、そんな女の子に寄り添える男の子にも見てほしい。そんな映画だ。