母が死ぬまでに、父と決めたことは
①延命治療はしないこと
②母の最後の着せたい服
③遺影の写真
①延命治療をしないこと
延命治療でチューブだらけになってまだ無理矢理母を生かしたくないという意見で一致した。
人工呼吸器も、心臓マッサージもしない。
辛そうな母を見たくなかった。延命治療は苦痛だと聞いていたから。
②母の最後の服
・長袖であること
・暗い色でないこと
・この季節にあってるもの
・母のお気に入りなもの
・お出かけ着であること
私たちの意見が一致した服が1つあった。
うすーい水色の上と白のスカート。
母らしくて可愛いツーピースのようなワンピース。
他のお気に入りは黒い服だったので、却下。母は衣装持ちだったので着れる服は私へお下がりにすることに。
③遺影に使う写真。
母の写真はなかなかいいのがなかった。
母の弟の誕生日会で撮ってもらった写真が一番いい!となったのだが、葬儀屋さんに話を聞くと集合写真で拡大すると画素が落ちてざらついてしまうということで、他の写真を探す羽目になった。
結局遺影に使った写真も遠目で見るぶんにはほとんどわからないけど、大きい遺影にしたときなんとなく画質が悪い(笑)
このふたつはすぐに決める事だったので事前に決めておいたのはよかったと思った。
葬儀屋さんと母に似合う花の色を選んで、遺体を家に運んでもらって、納棺師の方が来て化粧をしてもらった母は記憶の中の母に戻ったようだった。ポカーンって空いてた口は閉じてもらえた。、
数ヶ月ぶりに大好きな母の顔を見た気にもなった。
少し頬はこけてしまっていたが、今にも起きてきそうで。死後硬直だなんだで忘れていたが頬を膨らませて貰えばよかったなあと後になって思った。
湯灌してもらい、エンバーミング、今の技術はすごいなあ。
苦しむ母を長く見たくなかったのでよかったね、これでお母さん良かったんだねと弟と話した。
することのない24時間はきっと長くて、辛かっただろうから。
私達も母が母でいて欲しかったから。元気でおしゃべりで、明るくて、全力な母で。
唯一の心残りは、母はフランスに行けなかったことなのかなあと。
海外旅行が好きだった母、5つ星ホテルじゃなきゃ泊まりたがらなかった母、父と弟と家族旅行でいつかフランスへ行こうかな。
お棺の中に、母の愛用の化粧品、ダッフィー、パスポート、スマホケース、母宛の私達が書いた手紙、日焼け防止グッズなど入れた。
母の死の瞬間に泣き崩れたり、お母さんに声をかけることができなかった私はここで初めてお母さん大好きだよって口に出して言えた。
ドラマみたいなセリフは朝5時には出てこなかった。ただただ呆然とボケーっとして涙は留めなくてできてるだけだった。
お通夜、告別式は流れるように始まって、親族がみんな集まってる時に式場の人に、皆さんお揃いですかと聞かれ父が母が居ないって言いかけたわといっていた。
母はよくトイレに行く人だったからトイレに行ってるかもそんな気がした。
父の趣味は母だったから。母の思いつき、今やらなきゃいつやる!という考え方はわたしにも受け継がれていると思う(笑)母は父を引っ張ってどこでも行った。
告別式での父の挨拶で、泣いてしまった。
「妻は何事も全力投球、全力で楽しむ人でした、遊ぶときはとことん、突拍子もないお出かけも多く、たくさん楽しい思い出もあります。本人に言ったことはありませんが、この何年かは本当に結婚してよかったなあと思っていました。
妻もそう思ってくれたらなあと。…妻にそう思ってもらえることが私の生きる糧でした。
情けない事に、今はどうしたらいいのか…妻がいなくなるのがただ呆然としてしまいます。残された2人と頑張って前を向いて生きていきたいと思います。」
父が言葉を詰まって泣いてるの見たことなかった…
母は父を愛してたし、父も母を愛してたんだなあと思うと母は幸せだったんだなあと。
父をあだ名で呼ぶ母、父の誕生日はご馳走だって張り切る母、父に私の彼氏がなんとなく似てるって喜ぶ母…
我が家にはもう1人マザコンがいて、そのマザコンくん、骨壷の前にずっとオレオが寝てるのが、まるで母と寝てたオレオのようで。
母と会話してるのかもな。
ここ数ヶ月病院にいた母からの連絡はもっぱらLINEだった。
母からLINEがくるんじゃないかという期待をどこかでしてしまってる。世界仰天ニュースやアンビリバボーが好きだったから、奇跡的なのが起こるんじゃないかなと。
叔父や叔母が次は楽しい事で集まらなあかんのやからなといって今からお祝い貯めといたるわと。
母が結婚となったら現れて、このドレスは太って見えるからとか、あんたには似合わないとかママはこっちがいい!とか言ってくれるそんな気すらする。
どこかで見てる、きっと。
いつかそんな日がきたら…ね?