悪いことがしたい、いい子でいたい

痩せたいけど、美味しいもの食べたい。貯金したいけど、観劇もコスメも我慢したくない。ゴロゴロしたいけどどこか遠くへいきたい。

母のこと

令和元年5月5日

母を亡くした。享年55歳。

 

亡くなった時間も朝5時代、ゾロ目すぎるそんな母の死だった。

 

十二指腸ガンで11月にガンが見つかってから、あっという間の半年だった。

見つかったときには転移はなかったものの、もう切除不能

 

どこかで今まだ実感が湧いていない。

 

いずれ来る死。

母の死なんてあり得ないとなんだか思っていた。

 

母は2年前に乳ガンを患って、完治していた。乳ガンを患ってからこまめに定期検診を受けていた。乳ガンからの転移ではなかったのと、大腸の検査はしていたが十二指腸まで見えていなかったのが発見が遅れた理由なのだと思う。

どこかでまた母なら元気に復活すると信じていた。

 

人の死なんて誰もが予測はできない。

十二指腸ガンが巨大化し、胃を圧迫したせいで食事を取れなくなった母はみるみる痩せていった。

 

母は綺麗な人だった。娘の私とは違う、面長、二重、華奢な骨格、全てが母には似ていなかった。

だからこそ母は私の理想だったのかもしれない

母が友人や私の彼氏のお見舞いを断っていた。

こんな姿は見せられないと言って。

 

母は死の前日まで会話ができた。

 

虫の知らせだったのか、平成の我が家のディズニーの記録というか、母と父のデートの1989年のクリスマスから2018年10月までの写真をアルバムから引っ張り出してきてスキャンをし、スライドショーにした。

しあわせな日々がそこにはあった。

母はディズニーが大好きだったから。

CMみたいな出来になったと思う。母は「昔のみんな可愛いね」って言ったら「うん」って言った。それが最後の会話になったと思う。

 

ロクシタンのボディークリームとSK-II、最後まで母の愛用品だった。

 

大好きな母の顔が、頬がこけていくのが、目が閉じられないようになるのが、口も開いたままになるのが辛かった。

自分の記憶の中の母の顔とどんどん乖離していくのが辛かった。

自分でケアをしなくなった母にSK-IIを塗り、手足をロクシタンのボディクリームでマッサージをする。

マッサージを要求するラインがGW前まで来ていた(笑)マッサージをしながらアイスの実を食べ、くだらない話をする。

 

3月末にもう長くはないと看護婦さんに言われてから1ヶ月、昭和平成令和までギリギリ母は生きた。

令和までは生きたかったのかななんて思ったり。

 

私と同世代で母の死を経験する人はまだ多くない。私は最後の方、毎日母の元へ通った。

 

うまく話ができなくなり、何を言ってるかわからなくなり、オピオイドが原因なのかせん妄なのか突拍子も無いことを言うことが多くなる日も多かった。

最後の方はなぜかクリスマスの話題が多かった。

 

母にとってクリスマスは家族ですごす楽しい思い出だったのかもしれない。

ディズニーもクリスマスシーズンが多かった。

「弟も呼んでこっそりチョコ食べようか!」とか。

 

母はクリスマスのご馳走を作るのが好きだった。去年のクリスマスは母に習いながら料理を作った。

最後のクリスマスメニューは大好きな唐揚げと海老の香草焼き、キッシュ。

どれも母の味だ。

 

頑張り屋さんで、見栄っ張りで、思いっきりが良くて、感情豊かな母。

喧嘩もしたし、ひどいことも言われたし、言ったし、でも大好きな母だった。

 

お母さん、ありがとう。

いつまでも私はあなたの娘です。

大好きだよ。